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BeefSteak2nd

Author:BeefSteak2nd
十数年間システムエンジニア一筋のサラリーマンだった。環境についての何の専門知識も習得していないが、海面上昇を止めるために会社を辞め、地球温暖化防止を当面の我が人生のテーマと決めた。いずれは食糧問題にも関わっていきたい。
ドイツで一年間遊学後、日本国内の対策を民間の立場から取り組んでいる。
りゆーす・りさいくる・量り売り 前田商店に勤務。

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誰にでもできる地球温暖化防止対策
地球温暖化への対策は誰にでもできる。一人一人の行動が世界を変えていく。持続可能な社会を実現するための提案、私自身が民間人としていかにして貢献していくか、 ドイツのことなどを書いていきたいと思います。
「知っている」の複数の意味
ドイツ語を学びはじめると「知っている」という動詞が2種類あることにすぐに気づく。
一つはwissen(知識として知っている、心得ている)、もう一つはkennen(経験を通して知っている)。
英語だと両方ともknowになる。この2つは類義語になるのかもしれないが、本質は全く別モノだ。
例えば「Aさんを知ってる」という場合、2種類ある。
Aさんのことを話で聞いたことがある場合はwissenn、
Aさんに会ったことがある場合はkennenを使う。
ドイツ語を使わない私たちもこの2つをきちんと区別していくべきだと思う。

本を読んだだけで料理が上手になるはずはない。
知識として知るのは簡単だが、経験して自分のものにするには実践と多くの失敗を必要とする。

戦争の悲惨さを「経験で」知っている人は、日本にはもうほとんどいない。これからますますいなくなってくる。戦後に生まれた私などは学ぶことはできても、決して知ることはできないということを、まず自覚しなければならない。そして経験で知ってはいけないということを学ばなければならない。

地球温暖化にも同じことが言える。
南太平洋のツバルに住んでいる人々は、毎日満潮時に床下浸水になる地球温暖化の行く末を「経験」で知っている。自分がそこに生まれそこで生活しなければ、決して「経験で」知ることはできない。そして世界中の人がそれを経験で知ってはいけないということを学ばなければならない。

わかったふりをせず、経験することが大事だが、経験してはいけないこともある。
自分として生まれてきた以上、他人の人生は経験できない。

自分には経験できないことがたくさんあることを自覚し、謙虚に学び、考えるしかない。
知識は誰にでも持てる。行動で自分にしかない経験を増やしていこう。
そうすれば経験できないことでも、それに近づくことはできる。
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豚に思う
大人は都合の悪いことを伏せてしまう。特に先進国、特に日本なんかはそうなのではないか。

3ヶ月働いたドイツの家畜農家を再び訪れ、1週間滞在した。今回の目的は豚の屠殺に立ち会い、豚をどのように食品にするのか見せてもらうことだ。ずっとエサをあげていた豚なので、ただの見学とは少し違う。この豚は、生ゴミ、残飯、古くなったパンをエサに与えて育てた豚だ。この農家からは、生ゴミは全く出ない。

EUでは生のものをエサとして与えた場合、その肉は販売できない決まりとなっている。自分で食べる分には許されている。もし販売したければ、エサを煮沸しなければならない。人間が食べても大丈夫なものを与えてなぜいけないのかと、そこの農夫は語る。

職人さんが来て豚を屠殺し、大きく捌く。肉は旋毛虫(トリヒネ)などの検査のため獣医に診てもらう。私は豚を捌くのを甘く考えていた。ミクロネシアで男たちが集まってゆっくり捌くのとはわけが違う。鮮度を落とさないよう速く、そしてきれいに部位を分けていく。さすが古くから畜産が盛んな国だけある。道具もなにもかも完璧だ。職人になるのには3年勉強しなければならないと言っていた。2時間半で豚を捌くのは終了。私はほとんど見て写真を撮っていただけだった。
考えてみれば、日本でも大きなマグロをきれいに捌くのには職人の技術が要る。そう考えれば、豚だって同じだ。しかしほれぼれするような見事な捌きっぷりだった。

屠殺の前日、豚を眺めながら話しかけ、同時に自分にも問うた。人生とは何なのか。
何のためにこの豚は生まれ、なぜ私たちは殺してまで肉を食べるのか。本来は自分で手間ヒマかけて育て、殺して捌かなければ、肉にはありつけない。スーパーで気軽に買えてしまう一つの商品には、そんなこと考える必要すらない。
学校でもそういったものを見学させたりはしない。先生たちだってきっと嫌なのだろう。子供に見せても気持ち悪がって騒いで終わりだろうし。だったら大人になってからでも、こういうものを見るべきだと思う。暗記するだけの勉強をするぐらいなら、それよりは数倍価値があると私は思う。

自分の都合の悪いものから目を背ける。そんなクセがついてしまっているのではないだろうか。フタをしてしまっては、考える機会が失われてしまう。もっと現実を、生の声を、世界が抱えている問題を直視して、思いをめぐらせるべきではないのだろうか。無関心な社会を作っているのは、都合の悪いものにフタをしてきたからではないか。

屠殺の翌日、検査を受けた豚肉をさらに細かい部位に捌き、生肉とソーセージに分ける。ソーセージは4種類作った。どうやらソーセージも私は勘違いしていた。腸詰されたものだけがソーセージだと思っていたが、缶に詰めたものもソーセージだった。つまり、肉にいろんなものを混ぜて保存食にしたものはすべてソーセージということのようだ。

ソーセージを作りながら、いろんな部位を味見する。食感、味がそれぞれ違う。鼻の部分は、うーん、想像通りの食感。
おもしろいことに気づいたのは、心臓を食べるとき。ドイツ語でHerz(ヘァツ)という。あれ、ハツ?
後で広辞苑で調べたら、ハツは英語のheart(ハート。同じく心臓の意)の転訛とある。ドイツ語のほうがよっぽど発音が近い。

肉の量は豚によって違うので、スパイスなどの調合も職人の勘でやる。すべて混ぜたものを生のまま、依頼主と職人で味見する。もうちょっとあれを入れたほうがいいとか言いながら、味を決める。所要4時間。一匹の豚をすべて生肉とソーセージにするまでに、6時間半。さらに缶詰にしたソーセージをお湯で煮込むこと2時間、そのあと冷水で冷やす。
wurst.jpg

準備などを含めると約3日かかった。なかなか大変なものだ。
それがあんなに安い値段で売られているのかと思うと疲れがどっと出る。有機野菜でも同じ思いをした。

不要な部位として残ったのは、バケツ1杯分の筋や骨など。本当に無駄なく使う。

生肉、ソーセージになるまでの工程をもう一度考えてみる。
・丸一年、日に2回エサをあげ続け、糞を片付ける。
・職人さんを呼んで豚を捌く。
その前に子豚を買ってくるので、交配や品種を考えている人もいるのだろう。

哺乳類としてこの世に生を受けた時点で、一人で生きることは不可能だ。多くの人がそれぞれの技術を駆使してできた集大成がソーセージだ。一人では不可能に近い。ソーセージだけではない。まだまだ見えていないところがたくさんある。

きっと環境保護というのも、環境を意識していない多くの人や技術が集まって、ようやく形になるのだろうと思う。環境保護という専門職はほんの一握りでいい。環境保護がそれぞれの産業、暮らしに定着すれば、そのような職種はいらなくなる。しかし今は、オーガナイザーがいないとどうにもならない。

むずかしいことにはフタをして、とりあえず今日はお土産にもらった焼きソーセージをいただく。
バカに旨い。
毎日食べたいなどと贅沢は言わないが、たまには食べたい。
残飯を食べてもらって、おいしい肉になる。厳しい冬を越すための保存食になる。
豚というのは、神様のような存在なのかもしれない。
オーニング(調節可能な庇)
以前に「環境負荷の少ない住宅」というのを書いた。
これから新たに建てる家にはぜひ取り入れていきたいものだが、既存の家に対しても何か方法はないだろうかと考えている。というのも、建て替えをすると今ある家を壊して廃棄物が出るし、木材などの資源を新たに調達して資源を消費する。
ものを長く大事に使うというのも、大事な温暖化対策になるからだ。

・冬は太陽の光を最大限に取り入れ、夏はできるだけ遮断する。
夏に日差しが家の中に入るのを遮り、反対に冬は日差しが入るように、軒やバルコニーの長さが計算されている家。
これを既存の家にも対応させるためには。
北欧を旅したときに、特に目に付いたのが、窓の上に張り出した布の屋根(庇)。ドイツよりも北欧のほうが数が目立った。
awning1.jpg

awning2.jpg

(見づらい写真ですみません。)
私は名前を知らなかったのだが、ネットで調べてようやく見つけた。オーニング(awning)というらしい。
http://www.takano-net.co.jp/feature/awning/
よくオープンカフェなどで見かけるあれだ。あの庇がビルの2階の窓のなどにも取り付けられている。庇の長さや角度が変えられる。冬は畳むか巻き上げて庇をなくしてしまえばいい。太陽の光に合わせて調節できるのだ。

これはカーテンやブラインドよりも断然いいと思う。カーテンやブラインドは太陽の熱でそれ自体熱くなる。それが部屋の中にあると、室内も暑くなると思う。またカーテンなどでは日の明るさも減ってしまう。その点オーニングは室外で窓の上にあるので、部屋に熱が入りにくく、明るさを損なわない。
昔の日本家屋は庇が長かったらしい。そういえば真夏に京都の二条城、二の丸に入ったときに、冷房もないのに涼しかった。
これのさらに良い点は、会社ビルなど庇がない建物にも設置できるということだ。
それにちょっとおしゃれだし、ベランダにこれがあればちょっと庇を伸ばして外で食事するのも楽しいと思う。

・太陽熱の利用
ソーラーパネルは屋根に太陽が当たる家なら、どんな家にも設置できるだろう。屋根に太陽が当たらない家を探すほうが難しいと思う。ソーラー発電は20年使えば元が取れプラスになっていくのだから、長く住むつもりの人は導入しない手はない。

CO2を本気で減らすつもりなら、ガソリンに高い税金をかけて、その分ソーラー発電設備の助成金を復活させたり、オーニングの導入助成金などを設けてほしい。

コーヒーを煎れる
ドイツには各地域にその土地でしか飲めない地ビールがあることで有名だが、これは環境にも地域活性化にもよいことだ。地元で作ったビールを地元で消費すると、輸送にかかるガソリンなどの地下資源消費を抑えることができる。地ビールを飲みに観光客が集まり、地域が活性化する。観光客が移動するエネルギーという問題もあるが、毎日瓶が長い距離を往復するよりも環境負荷は低いはずだ。週末乗り放題チケットなどを利用して、みんなが電車などの公共交通機関を使えば、もっと低くできる。
(ドイツでは少量のビールなら車を運転してもOKだし、高速料金もタダだからやはり車のほうが安く済む場合が多いから、日本よりもずっと車社会。車が生まれた国だしもっともだが。)

本によると、ドイツ人が年間に飲むコーヒーの量はビールよりも多いらしい。私もビールとコーヒーが好きだ。コーヒー豆はさすがに気候的にドイツや日本では育たない。南米あたりからの輸入が大半を占めていると思う。コーヒーはとても長い距離を移動して、ようやく私たちの口に入る。昔で言う舶来品だ。
長い距離を移動するということは、それなりにガソリンなどを消費していることになる。環境には良くないことだ。環境とは別にコーヒー豆のとれる国に住んでみたい願望は少しある。コーヒーを飲まないようにすることもできるが、私はできれば飲みたいし、そこまで強い環境保護は望んでいない。コーヒーの輸出で成り立っている国もあるだろうし、日本は輸出で成り立っている。すべてを否とするならば鎖国をするようなものだ。(でも実際に各国が鎖国できたら、環境はかなり良くなると思う。)
せめて煎れ方くらいは環境負荷のかからない方法にしたいと思った。できるだけ資源やエネルギーを消費しない方法を考えている。

まずお湯の沸かし方
水道からヤカンに水を入れてコンロにかけるのが、日本でやっていたやり方だ。私が去年住んでいた東京のアパートは電気コンロだった。IHではない。電気コンロは熱くなるまでに時間がかかるし、そもそもコンロは熱が外に逃げると思う。ドイツの各家庭にある電気湯沸しポットは非常に沸くのが早い。
kessel.jpg

電力もそれだけ消費しているのかもしれないが、そこまで調べたことはない。だが早く沸くということはそれだけ熱が直接水に伝わり、ロスが少ないはずだ。このポットの中に必要な分だけの水をきっちりと量って入れる。無駄なお湯は作らない。ちなみに沸かす機能だけで保温機能がついたポットはドイツの家庭でまだ見たことがない。頻繁にお湯を使うのでなければ、ずっと電気を使い続けるのは無駄だと思う。

豆のミルの仕方
粉にして売られているのは、すでに機械でミルされたものだ。
飲む直前にミルしたほうがおいしいというのも聞いたが、ここで電動を使っては機械で大量にミルされたものよりエネルギー効率が悪い。自分は中古で手動のものを買った。
kaffmil.jpg

時間と手間はかかるが、香りを楽しめるし、ミルが終わる頃を狙ってポットのスイッチを入れればいい。

煎れ方
紙のフィルターは便利だが、資源の無駄だから使わない。フレンチプレスコーヒーメーカーというのを買った。
kaffmach.jpg

細かくミルするとカップに注いだコーヒーにも若干粉が入るが、私は全く気にならない。

そう、言い忘れたが、電動のコーヒーメーカーは使わない。
特にコーヒーを保温しても、味が悪くなるだけだ。

飲みたいときに、飲みたい分だけ作る。
コーヒーを作る時間も休憩時間だと思えば、手間のかかる方法でも悪くない。むしろのんびりおいしくコーヒーを味わえる。
思慮深く
ドイツ滞在もあと2ヶ月だが、ドイツでなきゃできないものは、もうほとんどなさそうだ。今は一人で家にこもって、自分の計画を詳細に練り、下ごしらえをしている。やらなければいけないことはまだまだ山積みだが、自由な時間が作れるし、いろんなことを一人でじっくり考える時間も作れる。ここにいると気になることが少ないから、集中もできる。ここでゆったりした時間を持てたことは、いろんなことに気づく機会にもなった。

やることを決め、活動も具体的になってきた。誰しも専門性を持たなければ、何事も成功しない。力は発揮できない。だから具体的になったのはいいことではある。
しかし、技術は専門に偏っても、視点は常にグローバルかつ庶民的であり続けなければならない。

自分は物事にハマると一点に集中しすぎ、そこそこ力を発揮するとは思うが、その分ほかの大事なものを見落とすクセがある。技術者としてはそれでもいいが、経営には向かないタイプだと常々思う。
地球温暖化を止めるために独自の観点で行動を起こし、仮に価格競争にも勝ち、環境と経済の両方に成果を上げられたとしても、それが社会全体の経済格差、従業員給与圧縮、雇用低下、品質劣化を招いては、豊かな社会創りに貢献したとは言えない。

長く関わってきたコンピュータシステムについて考えてみる。導入して雇用を減らし、高い人件費を削る(実際やろうとしてもかなり難しいけど)というのは、あまりにも安易すぎる。コンピュータは、人件費を減らす目的ではなく、仕事の質の向上と人間の安全のために使うべきだ。「作業の軽減=雇用や給与を減らす」ではなく、そのぶん新たな価値を生み出しもっと雇用を増やすぐらいにならなければ。
だから最初からコンピュータを導入して雇用を絞らず、後から自分たちに合ったものを導入するという手もある。コンピュータシステムを作るということも、雇用につながる。
こんなことを考えている経営者がいるとしたら、かわいそうなくらい大変に違いない。

お金に少しでも余裕がある幸運な人は、価格が安いということだけで選んではダメだ。商品そのものが環境にやさしく長く使えるだけでなく、販売している企業や材料を納品している会社などが、どのように社会に貢献しているのかを知って、いい企業のものを購入する。そうやっていい企業を支持していかなければならない。
商品に選択肢が多いのはいいことだが、残念ながら今のスーパーに並べられた分業化されすぎて選択肢の多すぎる商品からは、どのように作られたものなのか知ることは難しい。

お金のない人のために、安く商品を売るよりも、お金のない人に働いてもらって給与をあげたほうがよいのではないか。環境と経済を両立しようと試行錯誤しているが、それだけでは視点が足りなかったような気がする。というか、経済という言葉を自分は誤解しているのかもしれない。
自分は常に活動家でありたい。自分の時間と金、労力は犠牲だとは思わない。でもガリガリ働いただけでは、自分の理想にさえ到達できない。そもそも自分の目標が正しかったのかさえ、客観的に自己評価できない偏った人間になってしまう。
地球温暖化対策は早急にやらなければならないから、一番近道を行きたいが、未熟な自分にはまだまだたくさん寄り道が必要だ。
自分の視点が狭くなってしまったときにそこから引っ張り上げて、それを続けてしまったらこうなるよと、その先の未来を見せてくれるようなパートナーが自分には必要だ。仕事にもプライベートにも。
しかも頑固な自分がちゃんと聞き入れるように、言い聞かせてくれる人だ。そんな人がいるのだろうか。
自分が偏っても、社会全体で偏らなければいいのだから、あんまり力を持ちすぎなければいいのか。ある程度は力を持たないと、何も変えられないけど。


保たなければいけないバランスがいくつもある。

分野に広い視野、地域的にも広い視野を持ち、
平和で平等で豊かで持続可能な社会を目指し、
そのためには自分の金と時間、労力を惜しまない、
どんな人や物にもニュートラルで、
傾聴できる心と余裕を持ち、
相手の心に響くわかりやすい言葉を話す。

これらを兼ね備えた人なら、専門性を持たなくてもいい。そんな人はいないだろうか。
それでしっかりした根拠に基づいて未来を予測できるお金持ちだともっといいけど。(ちゃっかり)


でもそうか、専門性がないということは、分野に広くはなれるけど、すべて浅いってことだな。その時点でやはり判断に落ち度は必ず出てくるし、物には必ずメリットとデメリットがある。やっぱり完璧な人間も完璧な判断も存在しない。不完全な人同士が補い合って社会は成り立っている。そんな当たり前な結論に至る。

こんな悩みも、明日の食べ物に困っている貧しい人たちや、戦争中の人たちに比べれば、贅沢な悩みなのだろう。今現在困っている問題、今は表面化していないけど放っておくと未来にしっぺ返しがくる問題。本当は今現在一番困っている人のためにも働きたいけど、どうしていいかわからない。すべて一気には解決できない。時間をかけてジワジワと効果をあげていかなければならない。でも遠巻きながらでも、理想には確実に近づいていきたい。自分の代では到達できないとわかっても、あきらめず、できるだけ近くへ。
悩んでばかりでは何もはじまらない。今から行動だ。


またダラダラと長文を書いた。(ボソリ)

パンと糧
brot.jpg

何気に撮ったら結構いい写真になってしまった。60KBと小さいのでちゃんとクリックしてみてください。
すがすがしい朝食をイメージされたと思いますが、この日起きたのは昼すぎです。グダグダです。そんな昼でもコーヒーとこのパンを薄く切って食べるのです。


一人暮らしをするようになって、ベーカリーのパンを食べている。味もいいし、せっかくドイツでの生活なのだからという理由からだ。スーパーよりもベーカリーのほうが値段は高いが、お得感がある。といっても日本より安い。種類も豊富で栄養価も高いことだろう。おいしいパンなら下手に何かを添えるよりも、バターだけで食べたほうが風味を味わえる。ドイツのパン。日本に帰ったら食えなくなるのか。もし、ドイツにこのパンがなかったらかなりつらかっただろう。

よく外国語の文章が日本語に翻訳されるときに「パン」が「糧」になったりする。目の前にある「このパン」と言われると想像しやすいが、「糧」と言われると現実感が薄れる。
「いただきます」や「ごちそうさま」を外国語に訳そうとすると、どうしても感謝の言葉になる。ドイツ語やフランス語で言う「いい食欲を!」は、「召し上がれ」に近い。
では何に対しての感謝か?と聞かれると、調理した人や材料代を稼いだ人への感謝だと言う。「召し上がれ」という言葉がある以上、家の中に閉じられた言葉だと思う。食べ物に対しての感謝ではない。外国にいなければ、こんなこと考えもしなかっただろうが。

ドイツで最初に行った農家では、「この食事」「このパン」という表現で感謝の言葉を述べてからみんなで食べはじめる習慣だった。言葉の対象が明確である。
私は自分の文章について思うのだが、きちんと漏れなく誤解なく説明しようと思うあまり、文章が長くなりすぎて相手に伝わらない気がする。会社の仕事では漏れがあると自分の過失になるし、やりとりの回数を減らすためにもとにかく書いていた。
伝わるかどうかは二の次だ。書いてしまえば、伝わらなくても読まなかったほうの過失になる。そんなことをしていたから、変なクセがついてしまったのだろう。

たしかに糧と書けば問題ないのだが、ドイツにはパンだけでなくじゃがいももパスタもある。でもパンでいいのだ。だから日本語に翻訳するとき「パン」は「米」と訳したほうがよい場合があると思う。
(ほら、また。「訳したほうがよい場合がある」と書いてしまう。「訳すべきだ」と書けない。)

ドイツ語を勉強していて何かで見たゲーテの言葉に「外国語をやったことがない人は、自分の言語について何も知らない」というのがあった。たしかに外国語を学ぶと日本語に対しての疑問が出てきたりして、母国語への理解が深まると思う。でも「何も知らない」ということはないので、言い過ぎでは?と思うのだが、こう言ったほうが伝わる。私が書くなら「知らない場合が多い」くらいになるのだろう。心に突き刺さるものは何もない。

言葉にした時点で、所詮すべてを漏れなく伝えるのは無理なのだから、現実感のある言葉にして、印象深く伝える術を身につけたい。あいまいになってしまう日本語の弱点を言葉数で補うのではなく、具体的な表現で表す。
問題をあやふやにしたり、批判だけするのではなく、具体的にコレをこうしよう、と言えるようになりたい。細かいことを言うのではなく、短い言葉から、自ら気づいてもらったほうが目的は果たせる。人が耳を傾けてくれるような人格でもあらねばならない。

えーと、何を書こうと思っていたんだっけ。
あ、そうそう。いただきますとごちそうさま。
感謝の範囲が狭いのではないかということ。
有機農家で働いて、農薬を使わない野菜というものがどんなに手間のかかるものか見に染みてわかった。消費者にはその食べ物がどのように作られて、どこから来るのか見えない。食肉にしてもそうだ。実際には毎日豚を殺して捌いてくれている人がいるから食えるのだ。
だから、いただきますやごちそうさまは、いま目の前にあるその命、それを育ててくれた人、運んでくれた人にも感謝するべきなのだ。

有機野菜が高いといっても、あれだけ手をかけてこの値段かと思う。でも消費者の立場に戻ると、正直言っていつも有機野菜を買えるほど収入があるわけでもない。というか、ここ1年ばかり無収入だ。
農薬を使って大量に野菜を栽培することによって、将来野菜が採れなくなる、だから持続できる生き方をしよう、といっても、自分も収入を得るまで生き延びなければならないし、現実に今、腹を満たしたい。
貧困で苦しんでいる人たちが、高い無農薬野菜を買えるわけがない。現実はそうなのだ。でも有機農業には大賛成だ。

これは環境問題ではなく、経済格差の問題ではないか。
環境をよくしたい人、安全な作物を食べたい人はたくさんいるが、買うことができるのは一握りの人間。有機野菜を作る、買うことも大事だが、みんなが買える社会システムにもしていかなければならない。日本だけでなく、世界を。

まずは目の前にある食べ物について、どこから来たのか想像してみるといい。そのルートをたどっていくと、環境問題への対処が見えてくるのではないか。
今この食べ物に感謝し、しっかりいただいたら、そのエネルギーを少しでいいから貧困問題や環境問題に費やそう。現実感のある言葉は、現実的な行動へと発展していくと思う。言葉は環境対策をすすめるために重要なのだ。


あー、また長く書いてしまった。
よく撮れた写真を自慢して、私は今これに感謝していると言いたかっただけなのに。
以前自転車の地位について記事を書いたが、近隣国ではどうか。
この写真はアムステルダム。自転車道の整備はもちろんのこと、人口が多い割に駅でもきちんと自転車置き場におさまっていて、徒歩の邪魔になるようなことはなかった。
amstel.jpg

この写真はコペンハーゲン。こちらも同様だが、朝や帰りの自転車ラッシュ時を見ると、自転車道や置き場、人々の交通マナーなど、コペンハーゲンが最も整然とされている印象を受けた。
kobenhav.jpg


ドイツへ戻り、この写真は自転車を載せられる電車の車両。少し料金は取られるが、家から乗車駅と降車駅から目的地の往復が自転車でできるのだから、バスなどを利用するよりも安く済む場合もある。
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当然電車、路面電車には乳母車も載せられる。車椅子や乳母車優先のスペースがあるから、公共交通機関で子供を連れて出かけられる。乳母車もしっかりした車輪がついているものが多い。
日本では見たことのない自転車用のトレーラーもある。小さな子供が入って自転車で牽引している姿をよく見かける。
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自転車で行ける距離であれば、これでも子供を連れて出かけられる。カバーがあるから、雨水が撥ねたりするのも避けられる。自転車用トレーラーはこの他にも種類があり、たとえばちょっと大きめの組み立て棚を買うような場合、車で買いに行ったり配達を頼まなくても自転車で運べるだろう。

よく日本では「小さな子供がいる家庭では自動車が必要」などと言う。たしかに混んでいる電車に乳母車では乗れないし、整備されていない自転車道では子供を連れて乗ることができないだろう。
東京などでも、幹線道路だけでもいいから自転車道が整備されて、自転車置き場ももっと増えたら、環境にやさしい自転車が普及し、電車の混雑もやや解消されるのではないか。
元気な人が環境にも健康にも良い自転車に乗り、優先されるべき人たち、たとえば、医療機器をつけている人専用車両や、乳母車専用車両などを設けて、快適に電車にも乗れるような社会にしていけたらいいと思う。

自動車に関しても、あちこちでトレーラーを牽引しているのを見かける。日本でも売られているが、駐車スペースや狭い道幅の問題からだろう、あまり普及していない。
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これは普通乗用車の後ろに接続できるもの。きちんとナンバープレートとブレーキランプもついている。日本でも750kg以下であれば普通免許で牽引できる。馬を運べるトレーラーもある。

スキーやサーフィンなど趣味のために、排気量の大きい大型車を普段乗り回すよりも、小さな車でたまに必要なときだけトレーラーをつけるほうが、経済的にも環境にもよいと思う。
もちろん家にこのようなトレーラーを置いておけるスペースがあればの話だが、こういったものこそレンタルやシェアし易いものではないだろうか。土地のある田舎や、軽トラックが必要な仕事をしている人には打って付けだと思う。
環境負荷の大きさを不等号で書くと、こうなるだろう。

自転車<公共交通機関<排気量の少ない自家用車<排気量の多い自家用車
※もちろん、燃料がガソリンかクリーンエネルギーかなどの変動要素はいくつもあるが。

日本の交通政策も良くなって欲しいけれど、できる範囲で環境負荷の少ないものを選択していくこともできると思う。